備忘録

書きたいことや思ったことの殴り書き。

現実と理想の狭間

授業、修論インターンで構成されている修士課程のうち授業の部分が終わったので、授業を受けていて思ったことを色々書いていこうと思います。

 

 

授業はいわゆるLectureが半分ほど、残りの半分はグループワークやディスカッションで、後者のテーマは大体が現実に起こっている問題とかをいかに解決するか、とかが主眼に置かれていたので非常に楽しかったです。とはいえ、振り返れば面白かったもののストレスがたまることも多々ありました。

なにでストレスがたまるか、というと大体想像つくかとは思いますが意見の相違、もっと言えば根底にある思考プロセスの違いによるものがかなり多かったです。

 

ヨーロッパの学生の意見を授業で聞いていると、「一見すごくよさそうに聞こえるけど、それって本当に可能なの?」という意見をたくさん見ます。ひとことで言えば理想主義が過ぎるというか。こっちの大学って入試がないから入るのが簡単なのもあって、有機農業万能論者みたいな人とか、ビーガン万能論者みたいな人とか、結構な割合でいますからね。

実際問題有機農業やビーガンが「受け入れられれば・可能であれば」それはかなりの環境問題を解決しうると思うものの、実際にそういうわけにはいかないですからね。例えば菜食主義がマジョリティになりうるのは野菜だけでも十分美味い食文化が存在するか、食に対する意識が低いかのどちらかだと思ってますし。

話を元に戻すと、固定観念の外の画期的なアイデアとかを出したりするのは得意だけれど、こっちからすると「それって無理じゃね?」って思うことがかなり頻繁にあり、そこで意見の対立がよくありました。

個人的にはこれって社会の在り方だったり教育の在り方が影響していると思っています。ヨーロッパは、自分の思ったことを主張する文化(というかそれが当たり前に許される文化)・義務教育においても非常に自由度が高いんだろうなとデンマークにいた時も感じました。こういった社会の中で育つと自由な発想というのが生まれやすくなるのではないかな、と感じます。一方で日本はというと、出る杭は打たれ、集団における協調性が重んじられて、教育においても高校までは絶対的な正解を求めるというのが主流であって、ヨーロッパとはだいぶ異なっていると思います。こう書くとネガティブに聞こえるかもしれませんが、個人的に最近思っているのが「この日本社会のコンテクストで形成された思考回路って、意外と持続可能な農業を考察するうえで役に立ってるんじゃね?」ということです。

沢山ある最新の農業技術が世界中で広まっていたらたぶん大半の農業に関する問題は解決できるはずなのに、そうはなっていないのはなぜ?ということを考えると、結局農業の文化的側面が強いことが理由として大きいと思っているし、だからこそ「その土地の枠組みに沿って考えること」だったりとか、「制約としてどういうことが考えられるか」とかが非常に大事になってきます。これらを考えるのは出る杭を打つ・枠組みの中で答えを見つける社会で育った人間の得意分野です。自分は協調性のない人間なので日本は息苦しいって思うタイプだけど、初めて日本社会の構造に感謝したかも。

 

で、ここからが感心したことというか通っている大学の素晴らしいところなんですが、「それって本当に実現可能なの?」「それって本当にいいの?」みたいなことを先生側が意図的に問いかけることが多々あるんですよね。課題とかにおいても、「現実的なプランなのか否か」とかが強調されたり、ディベートで「有機農業は食糧保障について必要か否か」について議論させたりすることで、現実に可能なのかであったり、ニュートラルな視点を身につけさせようとしている姿勢にとても感心しました。実際彼らが得意とする自由な発想と行動力に加えて、現実的な目線が加わったら最強じゃん!って思ったりします。大学のアドミッションポリシーに、修士を出た後は社会でそれを実際に活かせるようなことを保障します的な旨のことが書いてあった覚えがあるのですが、本当にその通りだな、と。

 

こういう発見があっただけでもここの大学に来てよかったなと思うし、もちろん自分自身も農業についていろんな発見があったし、ヨーロッパの学生の意見からいろんなアイデアを吸収できたと思っているので、学習密度の濃い9か月くらいだったなぁと。来週からは6か月おそらくノンストップで修論パートに入ります。これはこれで楽しみ。