備忘録

書きたいことや思ったことの殴り書き。

「俺たちの東京」から「他所から見た東京」へ

自分は東京生まれ…ではないけれど、物心ついてすぐに東京に引っ越したので、それより前に住んでいたところを地元だとは思っていないし、東京育ちだ。ただ、「地元(出身)はどこ?」と聞かれたとしても、「東京」とは答えないだろうし、強いて答えるなら「練馬」だ。練馬大根やとしまえんに愛着はあるし、練馬区には愛着は確実にある。でも、同じ感情が東京にあるか、と言われると、即答はできない。東京名物といった時にもんじゃがあるけれど、もんじゃに対して誇りを持っているかと言われると別にそういうわけでもなく、なんとなくよその食べ物な気がしてしまう。新宿や渋谷だって、おらが町ってわけでは決してない。多分八王子に住んでる人も自分と同じような感じだろうし、山手線の中に住んでいる人からすれば、練馬区なんてなんもない地味な区だろうし、23区以外を東京だと思ってないひとすらいるだろう。47都道府県の中で下から数えて3番目という地理的な小ささの割に、東京は「デカい」。

そんな「デカい」東京全体に対して、地元という概念は中々当てはまりづらいなと個人的には思ってしまう。くるりの『東京』というタイトルの曲中では「東京の街に出てきました」と歌われているけれど、街という単語で形容するには東京はデカすぎる。同時に、地方の人が感じる地元への愛、みたいなものと、東京の人が東京に感じる気持ち、みたいなのはだいぶ違うんだろうな、という風にも思う。「東京の街に出てきました」「東京の空の星は見えないと聞かされていたけど」という上京のフレーズを聴くたびに、地元と東京の対比に対して共感できるアイデンティティを少しうらやましくも思ったりもする。東京はくそデカい。

 

FC東京は、そんなくそデカい「東京」という看板を背負って、Jリーグに参加している。Jリーグ百年構想には「地域に根差したスポーツクラブ」とあるので、曲がりなりにも「東京」という看板を背負ったうえで地域密着を目指していることになる。そんなFC東京のエンブレムに東京タワーなどが入っていないのは、「今あるシンボルに頼るのではなく、FC東京が東京のシンボルになるため」という説を聞いたことがある。FC東京のエンブレムに東京タワーが入っていたら、どこかチームのことを他人ごとに感じていたかもしれない。

 

東京で地域密着、いかにも無理難題なようにも見えるが、これはこれで、意外と東京都民にとって大事というか、欲している人がそれなりにいるんじゃないかと思っている。東京という都市が地元という概念に合わない一方で、FC東京という媒体を介することで「東京全体」を自分自身も背負うことになるからだ。狂ったように「愛してる東京」と叫び、東京のチームを応援している。そしてそこで知り合う人らは、東京の別の地域の出身だったり、出身は地方で東京に住んでいたりする、職業も年齢も違う人らだ。FC東京がなければ、別にその人たちとシンパシーを感じることもなかっただろうけど、FC東京のおかげで、別の地区に住んでいる人だって「同じ東京に住んでいる人」という風に思える様になった。東京が少し自分事になった気がする。そして、東京の中でも地域ごとにペーニャがあって、地域の名前が書かれた幕がスタジアムに貼られているのは、東京ならではだと思う。

そんな経緯があるから、FC東京には、東京だからこそ、地域を大事にすることを疎かにしないでほしいと思っている。自分が長いこと見てきたFC東京というチームは、東京というデカい街の中で暖かさを感じるような居場所であったように思う。外から見た「東京」に見合うようなイケてるチームでは決してなかったかもしれないけれど、かえってその不格好さが、「外から見た東京」と「自分の住んでいる・過ごしてきた東京」とのギャップを代弁してくれているようで、自分にとっては唯一無二のチームだった。

 

親会社が渋谷のIT企業になり、「東京=FC東京となるようなブランディング力の強化」を今まで以上に感じることになった。、「今あるシンボルに頼るのではなく、FC東京が東京のシンボルになる」という設立時のスタンスと変わってないようにも思えるが、似て非なるものだと感じる。花火をたくさん打ち上げ、レーザー光線で試合前の演出を行い、インフルエンサーを招待する。ブランディング力の強化の名目の元、エンブレムの変更も決まった。きっと今のものよりもスタイリッシュになるのだろう。新しい経営陣の頑張りを全否定する気はないし、IT企業らしく、対応が早い部分もある。事実外国人ファンに対するチケット販売やホームページの対応がとても速かったりしたのは素晴らしいと思った。

自分は今のFC東京に対する違和感をずっと、ピッチ内外のアンバランスさにあると思っていた。ピッチ外のことが充実すればするほど、ピッチ内で起きる事象への投資の消極姿勢が目立つし、そのサッカーがびっくりするくらい可能性を感じないにもかかわらず、そこに対して危機感を持っていなさそうなところ。サッカー舐めてるでしょって。

でも、本質的な理由はそこではないんじゃないか、と、ポスターの受け渡しを郵送にパタッと切り替えたニュースを見て感じた。今FC東京が行おうとしているブランディング力の強化というのは、「キラキラとした、大都市東京」に見合うようなクラブになろう、といったベクトルだと思っていて、これは他所から見た東京に近い。花火が派手に上がり、おしゃれな人や外国人が集まる、そんな場所。渋谷や新宿の真ん中で育ったような人からすれば、そういった東京も自分事かもしれないが、自分はそういう「キラキラした東京」はだいぶよそよそしさを感じずにはいられない。確かに新規顧客を呼ぶためには―東京観光といった時に多くの人が山手線の内側にとどまるように―そういったキラキラとしたイベントも必要なのかもしれない。けれど、それだけだと、自分からすればどんどんチームが他人事になっていく気がしてならない。「他所から見た東京像」に近づけようとする人からすれば、「東京で地域密着なんて無理でしょ」と思っているのかもしれないけれど、東京だからこそ、地域密着を意地でも目指す意味があると思うし、そこにFC東京にしか作れない文化やコミュニティが生まれるんじゃないか、という風に思っている。

 

色々書いたけれど、自分がFC東京の応援をやめる未来は想像できない。なんやかんや惰性で見続けるだろう。でも、チームの変わっていく方向的に、自分の居場所はどんどん小さくなっていっている気がしてならない。今は周りのたくさんの知り合いがいるからそこに居場所はあるけれど、その人たちがいなくなった時に、自分の居場所がスタジアムにあるんだろうか、と自問自答した時に、Yesと答えられる自信は正直なところあまりないように思う。