備忘録

書きたいことや思ったことの殴り書き。

サッカーファン文化人類学

スタジアムは特殊な場所だ。つくづくそう思う。老若男女、いろんなバックグラウンドを持った人が集まる場所。名前は知らないけどいつもいるからなんとなく挨拶する、ゴールが決まれば全く知らない人ともみくちゃになってハイタッチをしたりもする。そんなことが当たり前に起こっている。

 

そしてそこにはいろんな考えの人がいる。サッカーの見方、サッカーチームとの接し方、選手に対する想い、またサッカーとは全く関係のないことに対するものの見方。正直自分とは全く違う考え方を持った人もたくさんいて、普通だったら関わってないんだろうな、って思うような人とも「でもお互いFC東京が好きなんだよな」っていう一点のみで不思議とつながってる人もたくさんいる。

 

家族でFC東京を応援してたものの、13歳の頃には一人でゴール裏に行くようになり、いつも一緒に試合を見る仲間を見つけていた。土曜に試合がある時は学校を休んでアウェイにも車で連れて行ってもらったりして、毎年年間30試合はみているような中高生活だったので、自ずと知り合いは増えていったし、スタジアム・FC東京を通して社交性だったりいろんな考えを身につけていったように思う。いわばスタジアムという学校で育ったといっても過言ではないと思う。そしてそこでは学歴だとか、職業だとか、そういったスタジアムの外でよく使われる物差しによる優劣が一切ない。強いてもし優劣を作るものを挙げるとすれば、チームを思う気持ちのデカさとか、なんかそういうものだと思う。

前述した通り、スタジアムという場所には本当に色んな人がいる。境遇から住んでる場所、肩書きまで本当にそれぞれだ。サッカーがなければ人生で決して交わらなかったような人とたくさん会った。自分はそういったスタジアムの環境が好きでFC東京の試合に行っているというのが少なからずある。

そしてその中には本当にたくさんの人がいる。東京に住んでいる人、地方在住の人。東京出身の人もいれば、地方出身の人もいる。なかには外国人だっている。見方に関して言えば、立ち見席で応援する人もいれば座って見る人もいて、ホームにだけ来る人、アウェイにも来る人、はたまた試合には事情があってこれないけど心の中で応援しているような人。下部組織を中心に応援する人。ユニフォームを着てくる人、アンオフィシャルのTシャツを着る人。Tシャツを作る人、マフラーを作る人、ステッカーを作る人、そしてそれを批判する人。なんか、多様なバックグランドを持った人たちが集まる場所、って東京という場所を集約した感じがしてすごくよくないですか。

本当にいろんな人がいていろんな意見があって。で、そんな一見ばらばらのように見えるスタジアムにいる人々が、ふとした瞬間に同じベクトルを向いて、ものすごいエネルギーを生み出す、そんな瞬間がまあとにかく好きなんですよね。

 

けど、なんというかSNSの発展もあってなのか原因はわからないんだけど、「こうあるべき論」がなんか年々増えてきているような気がして、なんか徐々にコレクティブになってきつつあるような気もしていて。「これは正しい」「これはダメ」とかもそうだし、物事とかに対するとらえ方もそうだし。なんかみんながみんな周りとかを気にして同じことを言ったり同じようにふるまいだしたら、すごくつまらなくならない?って最近思ったりする。そしてコレクティブになっていけばいくほど、分断のようなものも生まれてくる気がする。

例として正しいのかわからないけど、定期的に話題になる多摩川クラシコについての作られたダービーなのか論争。多摩川クラシコと銘打った後にファンになった人が、「ヴェルディは試合したことないから正直なところそんなに感情がなくて、むしろ川崎のほうがライバル感強い」って言ってて、なるほど自分と全く違うってなったのを思い出す。その人の中には「自分におけるFC東京史」があってその中に東京ヴェルディというクラブは存在しない。なんかよくわからないけど一緒のスタジアムを使ってる人気のないクラブ程度の認識だろう。「なんでこんな弱いチームに対して川崎や浦和以上に敵対心をむき出しにしているんだ?」となってもまあ自然だとは思う。かくいう自分だってヴェルディ戦のスタジアムの熱気と殺気で「このチームには負けられないんだ」っていうのを身体で覚えたわけで、別にヴェルディが強かったころ、東京に移転云々の軋轢を知ってるわけではない。

個人的には客観的には正解も不正解もなくて、主観的にはどっちも正解だと思う。俺が見てきたFC東京において特定チームに対してや、特定の選手にたいしての感情があるけど、それが他人と一致しないのはわかってるし、それでいい。

自分には自分のFC東京観があるし、他人には他人のそれがあって、異なってていいと思うし、異なっているのにふとした時に「あーそれめっちゃわかる!」みたいな特定の経験に対する共感があったりとか、そういうのがすごい面白いと思っていて。それってみんなが多種多様な考え方をもってるからこそだよねって。

 

でも応援って結局コレクティブの極みじゃん、みたいな感じで思う人もいるかもしれないけど、個人的には多様な考えがあるなかで「あーそれ分かる」っていう共感の総和が結果的にコレクティブのように見えてるだけだと思ってて。もしコレクティブならどの応援歌の声量も90分通して一定かもしれないけど、そうじゃないわけだし。

 

で、なんか最近思うのは、いろんな人がいるなーって中で、いろんな人の「俺だけの」「私だけの」FC東京観・FC東京に関するストーリーみたいなのを聞いてみたいなって思ったりする。理由の一つは、単純に人のそういったパーソナルな物語を聞くのって面白いなって思うこと。あとは、なんかコレクティブになってきたなぁって自分が思っちゃってる以上、「なんだやっぱり多様じゃんね」って安心したい自分もいる。あと、しいて言うなら多様なストーリーを見聞きするなかでアイデンティティとか、そういうのも見えてくるんじゃないかなって思ってて。クラブの親会社が変わって、コロナ禍というものを挟んで、色々変わっていくんだろうな、っていう時期だからこそ、アイデンティティを可視化することは大事なんじゃないか、とクラブの経営母体が変わって改めて思った。時代に合わせた変化は必要なのかもしれないが、それでもクラブの幹のようなものは必要だと思ってて、それはクラブに仕事で来て一定期間でクラブを離れるスタッフや選手が作るものではなくて、ファンの側から作っていって、クラブを動かす側の人に「なるほど、FC東京ってこういうクラブなのね」と思わせるようなものであるべきだと、個人的には強く思ってる。クラブの歴史なり、アイデンティティなり、変わってほしくないもの、伝えていきたいものというのはしっかり可視化させていくべきだと思うし、その過程というか、おおもとにパーソナルなストーリーを置くっていうのはこちら側にしかできないことなんじゃないか、って思ったりする。そして個人的には、FC東京ってのはコレクティブと対極にあるようなクラブだと思っていたから、多様なストーリーをまとめるという行為自体がアイデンティティの可視化の一部分だと思ってる。