備忘録

書きたいことや思ったことの殴り書き。

最近考えていること

ファッションかパッションか

新潟戦の帰りに友達とこんな話をした。あれはパッションか、それともファッションか。

服装の話ではなく、振る舞いの話。スタジアムだけでなく、あらゆる物事に通ずる話だと思っている。

「こうしたい/こう思う」という気持ちや思想が内側にある上での行動や言動がパッション、そういう自身の気持ちよりも、承認欲求や、流行りや周りに乗らないと、みたいな気持ちが先行した行動や言動がファッション、だと思っている。旗を振ったりするのにしても、「メディアに写りたい、チヤホヤされたい」と内心思ってやるのか、チームに対して何かアクションを起こしたい、とか気持ちがあってやるのか、で同じ行動でも全然意味合いが違ってくると思う。

まあただこの境界は結構曖昧だし、主観によって定義されるものだから、外から人のパッション/ファッションを計れるものではない(といいつつ、今のスタジアムはファッションにまみれてるな、とも思ってしまう)。

俺の東京、という言葉はパッションを全肯定するためにあるような言葉だと思っているけど、この言葉によって植え付けられる「東京は自由」というイメージが曲解されて、ファッションが許容されるゴール裏になることを少し懸念していまっている今。

要するにパッションを持った人間がそれぞれの形でそれを形容する、という意味での自由は許容されるべきだと思うけど、なんでもやっていい、ではないと思っている。

 

こんなことを考えていくうちに、ポッドキャストで聞きたいことってその人のパッションなんだろうな、という一つの結論が出たので、いろんな人のパッションを聞きに回りたいな、というのが今考えていること。

応援の話から少し脱線してしまうけれど、オタクの話が一番面白い、と常々思っていて、これもオタクというのがパッションの塊だからなんだろうな、と思ったりした。

 

大学の記事、仕事の話

「農業界のスタンフォード大学」が描くオーガニックじゃない「未来の農業」 | クーリエ・ジャポン

母校のこんな記事が出てた。世界では農業系の大学で言えばココ、って感じで研究予算も規模も桁違いなのだけれど、日本では農業系のことを勉強してる人でも知名度はそんなに高くないのでこうやって取り上げられるのは嬉しいこと。

ここに書かれていることは、常々大学院でも議論してきた。世界中の様々なバックグラウンドを持つ人が、あらゆる観点から「地球環境と食を持続可能なものにして行くにはどうすれば良いか」を日夜議論・研究している場に身を置けたのは幸せなことだったように思う。

サステナブル、というと日本ではなんとなく「環境にやさしい」とかそういうイメージが先行しがちだが、それだけを考えるのではダメで、環境を優先した結果、世界の人口を支える食糧生産を実現する、という大前提が崩れてしまっては本末転倒。

この記事の見出しや切り抜きで有機農業が悪のような形に捉えられているのはなんとも残念な話で、有機農業「だけ」ではやっていけない、というだけの話。その場所の環境要因や社会的コンテクスト等によってベストなやり方は変わってくるし、「この農法がベスト」なんて普遍的な解は存在しないと思うのだけれど、「この方法がベスト」という最適解を信じてやまない人が多いのも事実。

普遍的な解が存在しない中で食糧生産システムを変革していくために、ワーヘニンゲンでは数理モデルの構築やフィールドでの実験、それらを統合したフレームワークなどの重要性を説いていたのだろう、と卒業した今になって思う。

 

卒業した後はアフリカかヨーロッパで働くつもりだったけれど、結局日本で働いている。それはやりたいことが出来そうな環境が日本にあったからで、その選択自体は逃げでもなんでもなく、「やりたいことを選んだ」に過ぎないのだけれど、肩書きとしては日本のサラリーマンである。

フジファブリック志村正彦が「普通の人になりたくないと思って音楽をやってきたけど、それでもふとその普通の人生がもの凄く羨ましくなる瞬間がある」と言っていて、これはもう何度反芻したかわからないくらい自問自答してることなのだけれど、今は「普通」と「普通ではない何か」の狭間で抗っているような気がしている。

志村正彦と重ねて自分の人生が普通じゃないなんて思うのは烏滸がましいことこの上ないのだけれど、少なくともオランダにいたりアフリカをほっつき回っていた時は一般的な日本人のレールからは外れていたとは思う。もちろん普通に憧れてしまって苦しくなる瞬間はあるのだけれど、自分にはこれが心地よかった。正確には、「自分は自分、他人は他人」と割り切って我が道を行くのを肯定してくれる土壌に身を置くことがもの凄く楽だった。

日本にいると、どうも「普通でいないと」、という意識がはたらいているような気がしてしまう。これは多分自分の元来の性格が協調性もなく、我が道を行く、といった感じで、それはそれで生きていくのに苦労するからと後天的に意識付けされたものだからこそ、より強く感じる。

そうなってきた時に、自分の結婚願望とか将来に対する「こうしたい」とか、そういうことは、自分の意志というよりも周りを気にしている故の感情なんじゃないか、とか思ってしまう。いや、結婚はしたいんだけど、今すぐにでも、みたいなのの明確な理由はいくら考えても出てこない。結局自分のやりたいように生きるには外に出ていた方が良いのかもしれない、と改めて思ったなど。

 

夢の話

ここ数年で一番と言っていいほどの、とびきりタチの悪い夢を見た。自分は現実主義というか、絵空事をあまり描かない方だと思う。仕事でも実生活でも、何か絵に描いた餅のようなものに遭遇すると「それって可能なの?」と真っ先に考えてしまうような人間だ。だからといって妄想やこうありたい、みたいな欲がないかというとそんなわけはないのだけれど、それが無理だと思ったら言葉に出す前に殺す癖がある。期待するから損したと思うのであって、期待を端からしない事で自分のマインドコントロールをしてる節がある。基本はそれでうまく行くのだけれど、殺された欲望は時々夢という形で鮮明に出てくる。一見楽しい夢のように思えるけれど、殺してきた感情の中には「あの時ああしていれば」という、もはや叶うはずもないものも多々ある。そう言ったものが出てくる時、いや、それが夢だと気付いた時、なんとも言えぬ絶望を感じる。それが今朝。過去を振り返ってたらればを述べても何も変わらないのが分かってる以上、日常に良い影響を及ぼすわけがない感情なのだから殺しているのに、忘れた頃にこうやって夢として出てくるんだからタチが悪いし、人間の脳は怖い。

絶望の寝起き、脊髄反射的にSpotifyを開いてsyrup16gを数年ぶりに流そうとした。オランダで鬱気味になってたときに聞いてたバンドで、もうどうしようもないくらい歌詞が絶望的。一曲だけお気に入りに登録していた曲があって、多分絶望してた頃によく聞いてた曲だろうな、と思って流すと、想像してた曲とは全く違う、それも柔らかい歌声、メロディーで、ぱっと見全然syrup16gっぽくないような曲。でもどことなく絶望の上でそれでも前を向かないと、と歌ってるようにも聞こえて、そう解釈するとすっと自分の気持ちに曲が入っていく気がする。そんな「Reborn」という曲を聴いてなんとか起き上がれた今朝。

 

三島由紀夫

この前会った人が、三島由紀夫のオタクで、三島由紀夫のことを「三島」と呼ぶような人だった。

三島由紀夫、いまだに根強いファンがいたり、海外からも評価されてたりするから面白いんだろうなとは思いつつ完全未履修だったので、おすすめしてもらった『花ざかりの森・憂国』という短篇小説集を読んだ。

小説の題材、時代設定、トーン等が小説ごとにまちまちで、三島由紀夫のカバーしている教養の範囲の広さを実感するのだけれど、それ以上に、感情や情景の表現の豊かさが桁違いで、読み終わった後に「文字を食ってるって感じするな!」と思った。

もちろん少し昔のものだから読むのは難しいし体力もいるのだけれど、文字を食べてるような感覚を覚えたのは初めてで、読み終えた後にもう一度読み返したい、と思ったのも初めて。

ストーリー自体はすごく面白い!という感じではないというか、今風の「面白さ」という評価軸で語った時にはそこまでではないと思うけど、それでも独特の面白さがあって、ファンがつくのも納得だなとなった。

ちょうどラランドのラジオを聴いていた時に「(本が良いのは前提として)、テレビの方が原作よりコスパがいい、社会人になって忙しくなってくると本を読む時間がなくなって、じゃあドラマや映画でいいかってなる」と言った旨の話をしていて、確かにストーリーが面白い、となる小説であれば映像の方がいいんだろうな、と思うけれど、三島由紀夫の場合は表現方法のリアルさと多彩さに魅力や真価があると思ったので、これは映像じゃなくて本じゃないとダメだな、と思った。三島由紀夫、おすすめ。