備忘録

書きたいことや思ったことの殴り書き。

狂気

日本のサッカー界では一般にはライトな層を指すために用いられる「ファン(fan)」という言葉はFanatics - 気の狂った人たち - という言葉から来ている。

日本だとサポーターが熱狂的な人、ファンがライト層という使い分けがいつからかされるようになり、「ファン・サポーターの皆様」というような言い方もなされてる。

この使い分けは甚だ無意味だと昔から考えているけど、語源を考えた時に自分自身の存在はファンに近いと思ってるから、ファンを自称している。


サッカーのスタジアム内には「ファン - 狂信者 -」が世界中どこでも山のようにいる。そしてその狂った奴らの狂気によって、サッカースタジアムにしか存在し得ない熱狂というものが生まれる。狂った奴らの数が多ければ多いほど、スタジアムの雰囲気はただならぬものになるし、良し悪しは置いておいて応援は今やサッカースタジアムにおけるコンテンツの一つになっている。


何故狂うのか?自身のアイデンティティと結びつくからなのか、スタジアムに身を置いているうちに自然とそうなったのか、理由は分からない。けれど、初めてゴール裏に行った日、周りのイカつい大人たちが椅子の上に立ち、自分も見よう見まねで椅子に立って、ほとんど何も見えないような中で過ごした90分。試合は旗や前の大人でほとんど見れなかったはずなのに、それまでで一番楽しかった試合なのは覚えている。自分もスタジアムの熱狂に飲まれたうちの1人だ。


「チームを応援する」という行為のために大声を出す、手拍子をする、そのために平日仕事を休んで地方に行く、応援をするために横断幕やゲートフラッグを作る、応援するという行為は徐々にエスカレートして行き、次第にそれは狂気になっていく。応援という行為、応援のための手段の帰結としての狂気はスタジアムの熱狂を生むし、サッカーがサッカーたり得るために必要不可欠なものだと思っている。どこからを狂気とするのかの定義は難しいけれど、ゴール裏に陣取る人々の写真のキャプションでしばしば「熱狂的なサポーター」と形容されることを考えると、一般の人から見ればゴール裏で応援してる人なんて行動の一つ一つを深掘りすれば大概狂ってるのだと思う。


狂気は色んなベクトルに向き得るが、サッカーのファン文化において、狂気の一つの完成系が発煙筒だと思う。発煙筒、Smoke bomb、ロケット花火を人が密集するスタジアムでやろうと初めて考えついた人間は間違いなく狂っている。

f:id:kerompa-tokyo:20230716120905j:image
初めにことわっておくと、発煙筒なんてロクなもんじゃない。2階席からのロケット花火の火の粉でお気に入りのダウンジャケットに穴は空いたし、大量の煙玉を使った時は煙くてむせるだけじゃなく二階席の屋根に煙が滞留して前半20分ほどまるで試合が見えなかったし、アルバニアで見た試合では発煙筒がピッチに投げ込まれたせいで試合は中断した。ギリシャのアウェイでは発煙筒がかなり厳しく規制されていたため、着火した瞬間に地面に投げ捨てられたせいで椅子が燃えた。それを鎮火するために、10分並んで買った飲み物を椅子にぶちまけた。

ロクなもんじゃない。現に、ヨーロッパのほとんどのスタジアム内での発煙筒は禁止されているから、発煙筒を焚く人は覆面を被っている。

ロクなもんじゃないんだけれど、ただならぬ狂気は自分の気持ちに火をつけるのもまた事実。結果としてスタジアムのボルテージは異様なものになる。知ってしまうとやめられない、一種の中毒のようなものだ。事実、"No Pyro No Party" (発煙筒無くしてパーティーは成り立たない)という言葉はよく見かける。

f:id:kerompa-tokyo:20230716121545p:image

f:id:kerompa-tokyo:20230716121511p:image

f:id:kerompa-tokyo:20230716121901p:image


自分は、スタジアムにおける狂気はあって然るべきものだと思うし、それをある程度は許容しないと本当の意味での熱狂なんて生まれるわけないと思っている。ただ、許容のラインは国によって、人によって異なるし、その平均のラインを超えたら怒られるのは当たり前だ。自分はヨーロッパにいたし色んな場所でサッカーを見てきたからその辺の許容ラインがだいぶ緩いのは自覚しているし、日本で発煙筒をやったら一線を超えた扱いになるのは当然理解している。

 


ただ、今回の件を見るに、狂気を完全に排除したい人が一定数いるんだろうな、とも感じた。クリーンなスタジアムを目指したいし蛮行が気に入らないんだろうけど、果たして狂気を完全に排除するなんて出来るのか?前述の通り、スタジアムにおける狂気というのは応援感情の帰結でしかないと思うので、既存の狂気を排除しても応援様式が今まで通りであれば、結局また狂気というのはどこからともなく発生する。狂気を完全に排除するなんて無理な話だし、サッカーにおいて狂気を完全に排除するのであれば、応援を一切無くす他ない。が、それは熱狂なんて一生生まれないスタジアムを生むだけだ。プレミアリーグではフーリガニズムを排除しつつも人気を維持しているが、あれは根底にサッカーが文化として根付いているが故だし、そもそもプレミアリーグだって暴力沙汰は排除しきれていない。「野球には応援もあるけどそういう事件はサッカーに比べて格段に少ないじゃないか」という意見もあるかもしれないけれど、サッカーにはサッカーの常識がある、としか言いようがない。サッカーの応援と狂気みたいなのが世界的に・歴史的に紐づいている以上、そういう思考の人が集まれば結局応援をしていれば狂気は生まれる。

問題が起きるリスクをゼロにしつつ、熱狂だとかを作り出すなんて、そんな虫の良い話は存在しない。結局のところ、狂気をうまく飼い慣らしていって、ギリギリのラインコントロールをするしかないのだと思う。飼い慣らすという意味では、まっさらにして新しい狂気に対応するくらいなら既存の狂気と上手く付き合った方が楽だよね、とも。


ひとつ、応援の帰結が狂気、と書いたけれど、その狂気だけを取り出して、それを目的にスタジアムに来る層というのは厄介だなと思ってる。これは世界中どこでもそうで、ヨーロッパにも喧嘩するためだけにウルトラスに所属する奴もいるし、こういうのはホントしょうもないと思う。サッカーを楽しむ、チームの応援をどうやるか、なんかは二の次で、「サッカースタジアムなら暴れていいんでしょ?」みたいな。応援の帰結としての狂気は好きだけど、暴れるためにスタジアムに来るのは好きじゃない。

先に書いたアルバニアでの事例はまさにこれだった。ファッションで発煙筒を焚き、投げ込む。応援の帰結でない狂気から熱狂は生まれない。そんなスタジアムの光景に嫌気がさして後半途中でスタジアムを後にした。スロバキアのアウェイに行った際も、ハーフタイムに覆面を被った喧嘩したいだけの連中がアウェイセクターを襲撃してきた。これもホントロクなもんじゃないし、クソダサい以外の感想が出てこなかった。

f:id:kerompa-tokyo:20230716122245j:image


狂気狂気と何度も書いて読んでる人も気が狂ってきたんじゃないかと思うのでこの辺で締めようと思うけれど、これと言った上手い締めくくりはない。ただ、自分は狂気が入り混じってるスタジアムの雰囲気が好きだ。その狂気が一線を越えれば罰せられるのも分かっているし、それは罰せられて然るべきとも思う。だからと言って一切の狂気をすることはスタジアムをディストピアにすると思うし、そんな未来は見たくないな、とも思ってる。