備忘録

書きたいことや思ったことの殴り書き。

アフリカ旅行記-エスワティニ

居候させてもらっていた友達が一時的に家を空けるとのことなので、それに合わせて自分もちょっとだけ旅行に出よう、と思った。住んでいるわけでもないマプトに居ながら「旅行に出よう」という気持ちが出てくるくらいにはマプトでの毎日は日常生活、といった感じだ。

地図を見てみると、エスワティニが近い。単純計算で2時間ほどで行けそうだし、この国に入るのにビザも必要ない。幸い今持っているモザンビークのビザもダブルエントリーで、エスワティニからモザンビークに再入国が可能なので、気軽に行って帰ってこれそう。

 

ということでエスワティニへと向かう。エスワティニといえば絶対王政の国で、王様がヤバいという話くらいしか印象がない。観光地も調べたけれど、「ここに行かねば!」といった場所もなさそうなので、あまり期待はせずに行く。まあでも2-3日の小旅行なので、それくらいの場所のほうがちょうどいいかもしれない。

ネットで調べた情報を頼りに、マプトの西側にあるJUNTAというバスターミナルをシャパで目指す。マプトのシャパは時刻表こそないものの、しっかりとした路線図があるから乗りやすい。

30分ほどしてバスターミナルに着き、エスワティニ最大の都市であるマンジニへ行くシャパを探そうとしているところ、警察に呼び止められる。もうここからは以下略でいい気もするけれど、数人に囲まれてにやにやされながら荷物チェックをされた。これだけで本当に1日のテンションが下がる。

シャパを探すと、マンジニ行きはコチラ、と書かれた看板はあるもののバスはない。そこでうろうろしていると、モザンビーク人に「マンジニ行きはないから、ナマーシャという国境沿いの町まで行ってそこからまたシャパを捕まえるのがいいよ」と教えてもらった。

モザンビークの通貨メティカルの一部を南アフリカランドに替え(エスワティニではランドが使える)、シャパに乗り込む。130メティカル(260円)。モザンビークの長距離シャパがすし詰めになるのは目に見えていたので、助手席に座る。助手席は最大でも3人なので楽。

2時間ほどして森の中にある小さな集落で降ろされる。ナマーシャという村のはずれ、エスワティニとモザンビークの国境だ。モザンビーク側の出国審査。ポルトガル語で矢継ぎ早に質問される。「英語は喋れるか」と聞くと「シャンガナ語なら喋れる。シャンガナ語で質問するか?」と言われて「んなもん無理だわ」となったので、渋々ポルトガル語で応対。エスワティニから来る人はポルトガル語は喋れないだろうに、せめて英語くらいは喋れてほしい。とはいえ色々な質問をされた以外は問題なく出国審査が完了。検問所を出てエスワティニ側に向かって歩いていくと、モザンビーク警察に呼び止められた。以下略。最後の最後までこの国の警察はくそだ。

 

エスワティニ側。コロナのワクチン証明書をチェックされた後、特に質問されることもなくスタンプを押される。びっくりするくらいシンプルだ。そしてその後に全員が受ける荷物チェックのようなものはあったけれど、これも簡易的なチェックで終了。国境一つまたいだだけでこうも違うか、と思ってしまう。

エスワティニ側の土地名はロマハシャ。ここも集落といったレベルだけれど、幸いATMはあったのでいくらか現金を下ろして、ローカルの食堂で昼食を食べる。カレーのような味付けのチキン・ご飯・千切りキャベツのコールスロー。無難に美味しい。

外は霧雨が降っていて結構寒い。この辺は森に囲まれているのだけれど、高地なのもあってあまりアフリカの森、といった感じではない。そんな視覚的な情報のおかげもあって、余計に寒い。

さすがに陸路で来る旅行者、それもアジア人は珍しいのか、声をたくさんかけられるが、色々質問をされるだけでからかいとかは一切ない。そしてみんな「スワジ人は親切で平和的だからここは良いところだ」と言ってくる。実際これは本当だなと思うくらい、今のところは好印象。

そういえば、この国の旧称はスワジランド。スワジ人の土地、という意味だったのだけれど、「土地って単語が英語なのおかしくね?」ということで、スワジ語での呼称であるエスワティニに改められたそう。JapanがNipponになるようなものなのかな。でもみんな呼称に慣れてないのか、スワジ人自身も「スワジランド」という人がかなり多い。

 

昼食を食べた後、マンジニへ行くミニバスに乗り込む。ミニバスは他の国同様ハイエースなのだけれど、かなり新しめだし、椅子も新車の椅子。サンバイザーには日本語ではなく英語が書いてあるので、日本からの中古車でもないらしい。となるとおそらく南アからの輸出だ。通貨が相互互換だったり、南アとの繋がりが強いことによる恩恵が見て取れる。車内はガラガラで出発までまだまだかかりそうかなー、と思っていると、乗車率が4割ほどで出発した!こんなことは今まであり得なかったのでうれしい驚きだ。

バスの中から外の景色を眺める。山が多いところを走っているときはヨーロッパを思い出すし、平地に広がる農地とたまに見えるポプラの木はもうものすごくオランダっぽい。天気の悪さも相まって非常にオランダ。留学先に帰ってきたような気分になる。

30分ほどしてバスが検問所のようなところで止められる。どうやら全員の荷物をチェックされるらしい。が、ここでも荷物を全て出せ、といった感じは全くなく、ある程度チェックをしたら「オッケー」と言われて終了だった。モザンビーク警察との歴然とした違いに驚きチップをあげたくなるくらい。

舗装された道をしばらく行くと、途中からなんと中央分離帯のある高速道路になった。これも南アフリカの恩恵かもしれないけれど、とにかくこの小国の発展ぶりには驚く。

午後4時。ロマハシャから2時間ほど、エスワティニ最大の都市であるマンジニに着く。最大といっても、大都会というわけでは全くない。あくまでもエスワティニという小国においての最大都市、といった規模だ。バスターミナルはそれなりにごちゃごちゃしているが、少し離れるとかなり綺麗なケンタッキーの店舗とショッピングモールが見えた。格子状の道路にケンタッキーと綺麗なショッピングモール、そしてビルがないが故の広い空という光景は、今までの国で見てきた光景とは少し異なる。そして何故かは形容しがたいのだけれど漠然と「あ、この町好きだ」と感じる。

宿もなければネットも開通していないので、最寄りの携帯ショップでsimカードを契約し、宿を探す。が、ネット上で調べた宿はどれも高い。もう少し安宿があるのではないかと踏んで、近くの旅行代理店に入って(別にマンジニの宿を扱っているわけではないが)、「この辺の安宿を知らない?」と聞く。すると、受付に座っていたおばちゃんが「うーん、宿は何個か知ってるけど正確な値段は分からないね。ちょうど今退勤して車で帰るから、ついでに宿まで送ってあげようか?」と。おばちゃんの子供も学校帰りで一緒だったし、直感的に「この人は危なくない」と思ったので車に乗せてもらう。

5分ほどで着いた宿が許容範囲内の安さだったので、おばちゃんにお礼を言うと、「何かあったら電話してね、現地の人の連絡先知ってた方が安心でしょ」と電話番号を渡してくれた。何から何まで親切すぎるこの国。しつこすぎたりするわけもなく、旅行客だからとお金を要求するでもなく。旅行客が珍しいからか声をかけられたり凝視されたりはするが、からかいとかも殆どない。

宿にチェックインをして、夕食を食べに行く。が、どうやらローカル食堂的なのはあまりなさそうなので、ホテルの向かいにあるインド系のレストランでカレーを食べて一日を締める。

 

翌日。まずはスワジキャンドルというエスワティニの名産である蝋燭が売っているところに行ってみる。日本だとスワジキャンドルという名称で通っているけれど、どうやらスワジキャンドルを売っているお店もある、工芸店や職人が集まっている場所、と言った方が正確らしい。なのでキャンドル以外にもエスワティニ国内で作られた様々なお土産が売ってて、みていて飽きない。お土産はあまり買わない性分なのだけれど、ありきたりではない、その地の人が手作業で作っていたり何かしらのメッセージが見えるものはついつい手に取りたくなってしまう。

 

自分用のお土産を買った後、マンテンガという場所に向かうべくバス乗り場に向かう。とにもかくにも、どこを切り取っても画になる風景を撮りたくてカメラを首から下げていると、昼間から飲み会をしてた6-7人の若者に「写真を撮ってくれ!」と言われる。人の写真を撮るのが好きな一方で見知らぬ人を撮ることに抵抗があるので、「撮って欲しい」と言われるのはありがたい。が、今までにも撮った後に金をせびられたことがあったので、少し警戒。何枚か写真を撮った後、メッセージアプリで写真を送ってあげようとすると「ハウマッチ?」と言われる。「あー今回もお金せびられるパターンか」と思いお茶を濁していると、「いくら払えばいい?ワイン飲む?今ワインしかないから、もし他の飲み物飲みたかったらこれで買って」とむしろお金を渡された。まさかお金をもらう側の話だとは思ってもいなかったので、困惑してしまった。お金をもらうのは気が引けたので断って、気持ちだけ受け取っておく。しかしこの国の人柄は今までのアフリカの国々とはだいぶ異なる気がする。

 

ミニバスに乗り、マンテンガへ。マンテンガではエスワティニの伝統舞踊を観れる文化センターへ。マンテンガで降りてから3キロくらい登山をした先に文化センターはあった。エスワティニに来てから薄々思っていたのだけれど、エスワティニ観光は車があった方が断然楽だ。ここに来て紛失のリスクを考えて免許を持ってこないという決断が仇となるとは思ってもなかった。

文化センターでは、スワジ人の伝統的な生活様式を説明してもらった後、近くの滝へのトレッキング、そして最後に伝統舞踊といった流れ。生演奏に合わせて踊る伝統舞踊はなかなかに迫力がありそれ自身も良かったのだけど、それと同じくらい彼らのダンスに合わせてノリノリで踊る修学旅行で来た学生たちも良かった。演者にお構いなしで踊り、前に出て一緒に踊ったり指笛を鳴らしたり。国によっちゃあ顰蹙を買いかねないけれど、ビートに合わせて心の底から全身で踊りを楽しむアフリカのこの感じが大好きなんだよな。自分も幸せな気分になれる。

ダンスが終わって、いい気分で来た道を歩いて帰ってると、後ろから来た修学旅行生が乗ったバスにクラクションを鳴らされる。邪魔なのかと思って避けると、「乗れ!」というジェスチャーをされる。帰りも3キロ歩くのか〜と思ってたところだったので今回も言葉に甘えてメインロードまで乗せてもらう。いやはやスワジ人は本当に優しい。観光資源的には乏しいかもしれないけれど、それ故なのか観光客に対しても優しいし、その結果としてものすごく好きな国になった。

 

三日目。マンジニを出て南アのムボンベラに行くか、首都のムババネに寄ってからマプトに帰るか。南アに行くにせよムババネは通るので、とりあえずムババネに向かってみる。エスワティニの首都、ムババネはエスワティニ西部の南アとの国境近くにある都市。マンジニからはミニバスで40分ほどで着く。ここには行政的な機能が集まっていると言った感じで、マンジニと比べると新しめの建物が多い。山岳地帯に作られた都市ということもあって、パッと見たらスイスとかスロベニアあたりの小都市のように見えてしまう。

ミニバスを降りると、早速バイクや他のミニバスの運転手が寄ってきて、「どこに行くんだ」と聞かれる。「今着いて、ムババネ散歩する予定だから何も乗らないよ」と伝えると「そうか、スワジランドを楽しんで!」と言われサッと人が引いていく。このアッサリさはアフリカの他の国にも見習って欲しいくらいだ。

ムババネには何か特別なものがあるわけではないが、強いて言うならアフリカ唯一の台湾領事館がある。入れるわけでもないし外から眺められるだけだけど、せっかく来たので眺めるだけ眺めてきた。

で、まあ1時間も歩けばやることも無くなるので、次どうするかを考える。ムボンベラに行こうと思ってはみたもののどうやら交通手段が限られていそうなこと、今からマプトに戻れば夜前には着けそうな感じだったので、マプトに帰ることにした。短い滞在だったけれどエスワティニを好きになるには十分な時間だったように思う。平和で人柄が良くて自然が豊かな小国。同じく南アに接するレソトは「南アのスイス」なんて言われるけれど、エスワティニも同じくらい評価されたっていいと思う。でもそんなエスワティニも問題が全くないかと言われるとそういうわけでもなく、エイズの感染率の高さはアフリカ随一らしい。それ故か公衆トイレには避妊具が置いてあった。なんとイミグレのトイレにすら。また絶対王政ということもあって、やはり国としての脆さはあるんじゃないかなとは思う。まあそんなエスワティニだけれど、好きな国なのでいい方向に発展していって欲しいなと思う。

 

 

アフリカ旅行記-モザンビーク②

早朝、テテの宿を出て空港に向かう。空港はザンベジ川の東岸にあるので、東岸のほうまで行くシャパ乗り場で空港行きを探す。

15-20分ほど乗って、コンダクターに「空港はここから300メートルくらい歩いたところにある」と言われ、メインロード沿いで降ろされる。

メインロードを離れしばらく歩くと、今まで見たことのないくらい質素な空港があった。空港というよりむしろ鉄道駅とかの雰囲気に近い。1日3-4便ほどしか発着していない、そんなテテ空港。

木造の入り口には”Check-In”と書かれた質素な看板が立っており、入り口を入ってすぐ左手にチェックインのカウンターがある。

チェックインを済ませようとするが、セキュリティに「預け入れ荷物の中身を確認させろ」と言われる。お決まりの賄賂パターンか…と思って自分の態度も露骨に悪くなるが、拒否して乗れなくなったりしても問題なので渋々応対する。結局これは本当にただの荷物検査だったので、係員に対して少しだけ申し訳なくなってしまった。まあでもこれもすべて腐敗したモザンビーク警察が悪い。

チェックインを済ませ、キオスクで買ったコーヒーを飲みながらセキュリティゲートが開くのを待つ。待合スペースも駅舎にしか見えない佇まいだ。

国内線かつ利用者も少ないテテ空港の導線は極めて簡素で、簡単なX線検査の後に小さな売店があり、その先には唯一の搭乗ゲートがある。搭乗ゲートを抜け、ボンバルディアのプロペラ機に乗り込む。これだけ飛行機に乗りつつも実は飛行機は得意ではないし、プロペラ機に関してはものすごい心もとなさを感じてしまう。

2時間ほどしてマプトが近づいてくる。上空から見るマプトは、碁盤目状の整備された街といった感じで、なかなかアフリカでは見ない計画都市のように見える。調べてみると、マプトは19世紀にポルトガル人によって作られた計画都市らしい。いかにも、といった感じだ。

 

モザンビークの首都、マプトに降り立った。空港にはシャパもないので、タクシーを使って街に出る。

マプトの第一印象は、これまで来た旅の中で群を抜いて都会、といった感じ。ナイロビやダルエスサラームも大きかったけれど、これらはまだアフリカっぽさのある都会だった。それに対してマプトは、なんというかヨーロッパや南米っぽい都会さを感じるので、ベクトルが少し違う。

ポラナ地区でタクシーを降り、昼食を食べたのち少し街を歩いてみる。するといろんなところからブラジルっぽさを感じた。高層ビルが立ち並びそれなりの賑わいを見せている24 de Julho通りからは、リオのコパカバーナ地区の少し内陸側の大通りを想起させる。時折白と黒のタイルが張り巡らされている場所を見るが、それはリオの象徴でもある。少し小さめの通りを入ってみると、全体的に白基調の家が並んでおり、サンパウロのジャルディン地区の高級住宅街っぽさを感じる。24 de Julhoを突き進んでBaixaという繁華街のほうに歩く。この辺になってくるとさすがに少しアフリカっぽいけれど、Baixaにある中央市場は外観が豪華な建物の中に小売業者がたくさんはいっていて、これはマナウスの市場と全く同じだった。ブラジルっぽさを探している感は否めないけれど、それでも同じポルトガル植民地だったこともあって共通点は結構ある。それに、今までの国とは明らかにちがう雰囲気がモザンビークにはある。

 

マプトにはオランダ留学時代の友達に会いに来た。それに付随した形で色々観光ができればいいなとは思っているけれど、それでも友達に会う、というのが第一目標だったので、基本はマプトにステイしながら観光をする感じ。

そう思うと、マプトの町の雰囲気も相まってこれまでの慌ただしい旅が終わったような気分になってくる。これまでずっとローカルな食堂で食べていたのもここで一区切り、といった感じだし。地理的にも、ゴールに設定してあるヨハネスブルグまではまあでもそれに対してネガティブな気持ちはなくて、どちらかというとポジティブ。そもそも自分の度にはあまり明確な目標とかもないというか、「動きたいときに動いて、休みたいときに休む、行きたいところには行くし面倒くさかったら行かない」がポリシーだし。ずっと動き回っていてそれなりに疲れてきたところもあったので、しっかりエネルギーを補充だけ補充して、ラストパートを頑張れたらそれでいいのかなと。

アフリカ旅行記-モザンビーク①

15時前にモザンビークに入国。モザンビーク側には街はなく、小さな集落があるのみ。当然両替所などはなく、個人の両替商がいるだけ。そうなるとかなり分は悪いのだけれど、手数料10%ほどで100ドル札をモザンビークの通貨メティカルに替えてもらう。

今日の目的地はここからさらに250キロほど行ったところにあるテテというモザンビーク中西部の街だけれど、アフリカで250キロの移動は下手したら1日かかる距離。適当な人に聞いてみると、国境から直接テテまで行く手段はなさそうで、アンゴニアのヴィラまで行って、そこからテテまで行くミニバスが出ているらしい。とりあえずそこまで行くことにして、満員に近いミニバスに乗り込む。

押し込まれた最後列はびっくりするくらい空気が澱んでいる。窓を開けようにも最後列には窓がなく、窒息してしまうんじゃないかという錯覚に陥るくらいには息苦しい。パニックになったりして迷惑をかけるのもあれなので、出発直前に窓際の席に変えてもらった。モザンビークポルトガル語公用語なのだけれど、国境沿いはまだまだマラウイ人も多いみたいで、ポルトガル語よりも英語のほうが通じたりするから助かる。

 

20分ほどしてミニバスは出発。ごく普通のハイエースに25人ほど乗っている。乗っているというよりも詰め込まれているという表現のほうが正しいくらいの密度で、ぎっちぎちなハイエースに乗り慣れてきた自分から見てもかなりぎちぎちだ。そりゃあこれだけ人が乗っていれば車内の空気は悪くなるよ、と思うのだけれど、彼らは最後列だろうがどこだろうがお構いなしに話しているのですごい。

出発して程なくして検問のようなところでミニバスが路肩に停車させられた。

警察は窓際に座っている自分を見つけ、「パスポートを見せろ」と言ってくるので渡す。5分ほどしてもパスポートが返ってこないので降りると、銃を持った警察に「こっちに来い」と小屋に連れていかれる。ついさっきビザを取ったばかりだし問題はないはずだが。

恐る恐る小屋に入ると、4人ほどの警察がにやにやしながらこちらを見てくる。そして「荷物の検査をさせろ」と言われる。荷物を全て出してチェックが終わったあと、「コロナの証明書を出せ、出せなかったら罰金だぞ」と言われたので、ワクチンの証明書を見せると、「それはインターナショナルなやつだからだめ。モザンビークのやつを出せ」と。頭の中に?が10個くらい並ぶが、冷静に考えてハッタリだ。

「大使館に電話して必要かどうか確認するわ」とこっちが言うと、向こうはすぐさま「もういいよ。でも冷たいドリンクが飲みたいから金くれ」と言ってきた。結局荷物検査もコロナの証明書も茶番で、金が欲しいだけなモザンビーク警察の腐りっぷりに唖然とする。

ちなみにこのようなやり取りは検問の度に起きた。面倒くさくなって払ってしまう人がいるのは理解できるし、だからこそ賄賂もなくならないんだろうなぁと思う。在住の友達曰く陸運省大臣が変わって汚職や賄賂も昔に比べるとマシになってきたみたいだけれど、こういった部分までは行き届いてない模様。とりあえず今のところのモザンビークの印象は警察のせいであまりよくない。

 

1時間ほどで彼らがヴィラと呼んでいた土地に着く。どうやら正しい名前はウロングウェというらしい。地図を見た感じ宿泊施設や携帯ショップ、銀行など、最低限はありそうな町だったし、この時点でもう17時前だったのでこれ以上移動するのは危険な気がしたので今日はウロングウェで一泊することにした。

適当に目についた宿が1泊2000円ほどのワンルームで、ベッドや水回りもまあまあのクオリティだったのでそこに泊まることにする。聞いてはいたけれどモザンビークの宿は他に比べるとだいぶ高い。

宿に併設されていた食堂でチキンとライスの定食をオーダー。30分ほどかかるといわれたので気長に席で待っていると、食堂内にあったビリヤード台で遊んでいたおじさん達が「日本人か?ビリヤードやろうぜ」と誘ってくれたのでやることに。ビリヤードなんてもう何年もやってないので思ったとおりに全然球がいかないけれど、何かしらの遊びを通した交流みたいなのはとにかく楽しい。そして一見パッとしない(失礼)おじさんたちはびっくりするくらいビリヤードが上手い。

あっという間に30分が過ぎ、チキンを食べるがこれがびっくりするくらい美味しかった。これまでの旅程では、鶏肉と言えば硬めのローカルチキンのトマト煮込みがデフォだったのが、ここではジューシーなチキンをレモン塩でマリネしてグリルしたものが出てきた。モザンビークでは鶏肉を食べよう。

夕食後は特にやることもないので、部屋に帰って水シャワーを浴びる。水シャワーは浴びる前は苦行だけれど、浴びたあとは1日の疲れを流せた気がして心地が良い。

 

翌日、朝6時に起きてテテ行きのバスを探す。前日降りたバス停で待っていると、10分ほどしてミニバスが来る。ちなみにモザンビークではミニバスはシャパと呼ばれている。国境を越えるたびに物の呼称や挨拶が変わるのは良い頭の体操になるなと思う。

 

テテ行きのバスに乗っている間も検問で止められて賄賂を何度か請求され、挙句の果てにはドライバーに「早くいきたいから払ってくれよ」と言われる始末。こうなってくると逆に1円たりとも払いたくないのが人間の性。

テテ行きのバスに乗ったものの、今日の目的地はテテではなく、テテから5キロほど手前のムワティゼという街。友人がここに住んでいる知り合いを紹介してくれて、ありがたいことに泊まってもいいよとのお言葉をいただいたので、お言葉に甘えて宿泊させてもらうことにした。

7時間ほどシャパに揺られてムワティゼに着く。ドライバーには賄賂のときに俺が助けてやっただの、外国人だから高く請求してもいいだの、色々ケチをつけられて相場の3倍の値段を請求されたけどムカついたので相場しか払わずに降りる。

ムワティゼは雲一つない快晴で、降りた瞬間に熱気を感じる。それもそのはず、ここの地域はモザンビークで一番暑い地域で、そんな地域に一年で一番暑い時期に来てしまったらしい。湿度も低く少し歩くだけでとにかくのどが渇く。買った500mlの水が一瞬でなくなってしまう。

ムワティゼに住んでいる方と合流して、マーケットの中の食堂で昼食を取る。小さい町(というかほぼ村)で白人がほぼいないからか、食堂にいるだけで小さい子が寄ってくる。ちなみにここで食べたチキンも前日のチキン同様とても美味しかった。

 

ムワティゼの街を歩く。ここムワティゼは、炭鉱の町として知られていて、周りにはたくさんの鉱山が存在している。インスタ映えするような観光地では全くないけれど、炭鉱にまつわる面白いスポットはたくさんある。

ムワティゼからテテまでを結ぶ大きな道から北にそれてしばらく歩くと、十字架の立っている丘が見えた。これはサンタバルバラというカトリックにおける鉱山などの守護聖人が祭られている丘で、モザンビークだけのものではなくポルトガルやブラジルなど他の国にも存在しているらしい。炭坑は古今東西危険がつきものとのことで、炭坑に入る前に皆ここの丘に行ってお祈りをするらしい。

実際ここムワティゼでも1970年に大規模な炭坑事故が起きており、その記念碑のようなものも存在する。記念碑の周りにはごみが雑然と捨ててあって少し残念な雰囲気ではあったけれど。

他にもポルトガル植民地時代の石炭公社の跡地や、石炭をストックしておく場所など、至る所から石炭の町たる所以を感じる。そしてここでとれた石炭は、列車によってインド洋沿いの港に運ばれていく。このムワティゼの鉄道駅からは現在は貨物列車しか走っていないものの、列車を待っている乗客もちらほらいる。話によるとどういった貨物列車もセキュリティの人が乗るための車両があり、そこでセキュリティの人に直接お金を払うことで乗ることが出来るらしい。

 

そんなこんなでムワティゼには2日ほど滞在。小さな町というのもあるかもしれないけれど、モザンビークは警察の横柄さとは対照的に普通の人の人柄はとても良いなと感じる。嫌なこともあまりない。

ムワティゼを後にして目的地のテテに向かう。とはいってもテテになにか用事があるわけではなくて、テテからマプトまでの距離が2000キロもあるので飛行機を使っていくことにしたからテテに行くだけ。中西部最大の都市を素通りするのももったいないので、1泊だけすることに。

 

ムワティゼからテテまでは直線距離では10キロほどなのにもかかわらず、この二つを結ぶ橋が今年初めのサイクロンで破壊されて、未だに復旧工事中ということで通行止め。だいぶ南の方にある他の橋を渡って大回りするほかないため、1時間半ほどかかる。アフリカに来てみると川というのがいかに大きな交通の障壁になるのかを実感するし、開発援助として橋が建設される理由もよくわかる。しかし年明けに橋が破壊されてもうすぐ1年が経つわけで、これが直ったところでまたサイクロンで破壊されてしまう気がしてならない。

テテは街の真ん中にザンベジ川が通っていて、その両岸に街が発展している。西側は植民地時代に発展した地区で、東側が現在開発中の地域だ。ザンベジ川の河川敷には農地があるけれど、川の水位が上流にあるダムによってコントロールされており、このダムの放水によって農地が氾濫することがしばしばあるそう。自分が行った時もトウモロコシを育てているような土地が水浸しになっているのを見た。なんともいたたまれない。

 

テテもムワティゼ同様死ぬほど暑い。少し歩くだけで体中から滝のように汗が噴き出て水分が失われていくのを感じる。ムワティゼとの違いは、こちらはしっかりとした街なのである程度気温の低い屋内施設が存在すること。今風のカフェに入って体をリセットする。

ザンベジ川西岸を歩く。通りに並ぶ古びた3階建てほどのビルからはなんとなくブラジルのポルトアレグレの風景を思い出す。比較的大きな街だけれど、特段これと言って面白味のある風景が広がっている、というわけでもない。ということでシャパに乗って東岸に向かう。東岸には比較的新しいショッピングモールがあるとのことでそこをまずは目指して向かってみる。西岸は比較的狭めの地区に3-4階建てのビルが集合したような形で発展している一方で、東岸は1本のメインロードを起点に1階建ての建物が低密度で広がっていて、メインロード沿いにショッピングモールなどの大きな店舗が建っている。ショッピングモール自体の規模はまあまあ大きいのだけれど、入っている店舗はショップライトという大型のスーパーマーケットといくつかのローカルのアパレル店舗、残りは空のテナントといった感じで平日なのを差し引いてもなんとも寂しい雰囲気。だだっ広い駐車場と隣にあるケンタッキーは、なんとなくアメリカやオーストラリアの地方の小さなショッピングモールを想起させる。

ショッピングモールの隣にはヨーロッパ、特に東欧でよく見たSPARがあり、ヨーロッパが懐かしくなる。すっかりアフリカに慣れきってしまったけれど、今ヨーロッパを旅行したらどういう感想を抱くだろうか。

 

特段映えるような景色があるわけでもないムワティゼ・テテではあったけれど、それでも文化的にも地理的にもかなり面白い、歩き甲斐のある地域だったように思う。それゆえに猛暑で歩くモチベーションをことごとくそがれたのが残念ではあったけれど。

いよいよモザンビークの首都、マプトへと飛び立つ。マプトはモザンビークの最南端に位置するので、もうここまでくるといよいよゴール目前だ。

アフリカ旅行記-マラウイ~モザンビーク

マラウイの次の目的地はモザンビークモザンビークに行くのも友達がいるからなのだけれど、裏を返せば友達がいなければ行っていない国の一つ。

事実マラウイモザンビークというルートは観光地的に、ビクトリアの滝やナミブ砂漠などに比べると面白味に欠けることもあって、旅人の王道ルートからは外れる。そのため情報が笑っちゃうくらい少ない。

日本人がモザンビークに入る場合はビザが必要で、モザンビークのオフィシャルな情報だと、「出国先に大使館がある場合は事前にビザを取得すること、ない場合はアライバルビザも可能」という風に書いてあって、マラウイには大使館があるので、事前にビザを取得する必要がありそうだ。

数年前の情報だと、在マラウイモザンビーク大使館では申請当日もしくは翌日にビザが発行されるということが書いてあったので、翌日に発行されるていでビザの申請をしにリロングウェにある大使館に向かう。

リロングウェの宿代>ムチンジ・リロングウェの往復+ムチンジの宿代だったので、この日は荷物はムチンジに置いて、あらかじめ印刷した必要書類とパスポートのみをもってリロングウェに向かうことにした。

リロングウェにあるモザンビーク大使館の場所を調べると、大使館の場所はすぐに出てくるのだけれど、Google mapの口コミに「ここは昔の場所で大使館は移転した」と書いてある。が、事前にマラウイ在住のモザンビーク人に聞いたら「ここが正しい場所だから問題ない」と念を押されたのでそこに向かう。

地図に示されたArea40という地域まで歩き、ピンを建てた場所に来たが、それらしき建物はない。仕方ないので近くにいた警備員に聞くと、「昔までは大使館だったけれど、今は別の場所に移転した」と。移転した場所はそこからさらに3キロほど北に行ったArea43という場所にあるらしく、仕方なくバイクタクシーを捕まえて正しい場所に行ってみる。

近づいてくると、モザンビーク大使館(正確には領事館のような感じ)の文字が見えてきたので、案内板に従ってバイクタクシーを誘導する。Area43には小綺麗な家が立ち並び、そこには「〇〇国大使の家」などと書かれている。どうやらそういった偉い人が住むエリアのようで、そういった立派な家以外ほぼ何もない。

目的の大使館に着き、バイクを降り、門のところで受付を済ませて中に入ろうとすると守衛に「半ズボンじゃ入っちゃいけないよ!」と呼び止められた。これに関しては完全に自分の不手際だった。実際前日に「ドレスコードとかあるかな」と一瞬頭をよぎったものの、「いや、長ズボンは暑いよな」と思って半ズボンにした経緯があったので、完全に自分のせいだ。

せっかくリロングウェに来たのに大使館に入れずに帰るのは勿体なさ過ぎるので、周りで長ズボンを買ってもう一度入ろう、と気を取り直す。Google Mapを開いて洋服屋を探す。が、見ての通り周りは豪邸ばかりで洋服屋なんて全くなさそうで、1.5キロほど戻ったところにあるスーパーに売っていることに賭けるしかない。相変わらず焼き付けるような暑さだったのでバイクタクシーを使いたいところだが、財布を取り出して中を見て唖然とする。4000クワチャ(3ドル弱)しか入っていない。これじゃあそもそもズボンを買えるかどうかも怪しい。銀行ATMはさらに離れて4キロほど歩かないとなさそうだ。立て続けに色々なことが裏目に出てしまって思わず大きなため息が出るけれど、とりあえず歩いてスーパーまで戻り、もしズボンが売ってたらとりあえず買って大使館まで歩いて戻ることにする。

25分ほど歩いてスーパーに着く。道中「ズボン落ちてないかなぁ」とか本気で考えながら歩いていたけれど、ついぞ道端に落ちているズボンは発見できずにスーパーまで来てしまった。スーパーを見渡しても長ズボンはなかったが、スーパーから出たらズボンを手売りしている商人がいた。値切り交渉の末2500クワチャでゲット。とりあえずこれで大使館には入れそうなので、気を取り直してモザンビーク大使館に再突撃。

 

無事大使館に入れたので、「観光ビザの申請をしたいのだけれど」と伝える。必要な書類を伝えられたのでそれを一通り渡したうえで、「いつ頃発行されるの?」と聞くと、「早ければ1週間、普通なら2週間、一番遅くて3週間。あなた25日の国内線のフライトもってるけど、これには間に合わないわよ」とあっさり言われてしまった。

数年前の情報だと当日または翌日発行と聞いていたので、「Expressみたいなのないの?」と聞くと、どうやら廃止されて、今は書類を全部モザンビーク本国に送って照会しないとビザが降りないことになっているらしく、領事権限でのビザ発行とかはできないらしい。

6日後のモザンビーク国内線のフライトを予約していたので、だいぶ困った。ダメもとで「アライバルビザはないの?」と聞いてみると、「国境に行ってビザを取れなかったとしてもそれはあなたの自己責任です」という、答えになってそうでなっていないような答えが返ってきた。正直「無理です」ときっぱり言われると思っていたので、そこで煮え切らない回答が返ってくるのであればこれは行けるんじゃないか、と思い、気を取り直して国境に行くことにする。

 

というわけで後日、国境に向かう。マラウイからモザンビークに入ることが出来る国境はいくつかあるのだけれど、自分が今回目指すテテというモザンビーク中西部の都市に入るボーダーはDedzaボーダーかZobueボーダー。どっちの国境にしてもアライバルビザを発行している確証はなかったので、より距離の近いDedzaボーダーに行くことにした。

リロングウェからDedzaまでは大体バスで2時間ほど。料金は8000クワチャほどでもう少し安くなる気もしたけれど、クワチャを残しても仕方なかったので言われた通り支払う。Dedzaの街からボーダーオフィスまでは2キロ弱なので歩けないこともない距離だけれど、あまり時間を使いたくなかったこともあってバイクタクシーで。

Dedzaのボーダーは近いうちにマラウイモザンビークの共同出資で1つのオフィスにまとめられるらしい、というニュースを見たのだけれど自分が行ったときはまだオフィスは別々だった。マラウイ側の出国は出国カードのようなものを書いて完了、のはずが「PCR検査を受けてないと出国できない」と審査官に言われる。そんなわけなかろうと思って調べるとやはりそんなことはなかったので、後ろに並んでた人に「PCRの陰性証明必要らしいんですけど持ってますか?」と聞いたり、審査官に「日本大使館に電話しますね」というと、苦い顔をしながらスタンプを押してくれた。賄賂のための簡単なウソなんてすぐにばれるし、向こうとしてもウソを押し通すリスクは高いのでこっちが毅然とした態度でやりあえば払わずに済むのだけれど、それでも賄賂が横行しているのは払う人がそれなりにいるからなのだろう。

 

マラウイでの思い出に泥を塗るような賄賂請求をかわしてモザンビークのボーダーオフィスに入る。「ビザは持っているか」と聞かれたので「持ってないから観光ビザを取りたい」と伝えると、「パスポートを見せろ」と言われる。正直ここで断られていない以上「これは行ける!」と感じた。

言われた通りにパスポートを渡し、ついでに大使館に行ったときに申請に必要な書類と言われていた宿の予約証明書、銀行の残高証明書、パスポート用の写真、モザンビークからの出国手段を明記した書類を渡す。ただ、「証明写真は後で取るからいらないよ」と言われたり、残高証明書を渡したときに「こんなものまで持ってきたのか、用意周到だねぇ」と言われたりしたので、アライバルビザの申請時の必要書類はどうやら大使館でのそれよりも緩いっぽい。

しばらく待っていてと言われたのでオフィスの中で待つ。入国審査のボスはどうやら親日っぽい感じで、いろいろと日本についての質問をされたりで嫌な感じはせず、会話をしながら時間が過ぎるのを待つ。1時間ほどして、入国に必要なカードを配られ、それを言われた通り記入する。そしてその後証明写真をオフィスの小部屋で撮ってもらい、ビザの印刷を待つ。

写真を撮った後さらに30分ほど待つと再び呼ばれ、ビザ料金の支払いを済ませる。ビザはどうやらダブルエントリーで30日間有効のもので50ドル。聞いていた感じ100ドルくらいかと思っていたので、思ったより安い。てかダブルエントリービザなんてモザンビークにあったのか。最後にしっかりと入国スタンプを押され、"Mr. Ken, Welcome to Mozambique"とボスに言われる。この度一番の難関だと思っていた国に無事入国出来、肩の荷が下りる。

そんなこんなで、59か国目、モザンビークに入国。

アフリカ旅行記-マラウイ②

リロングウェでバスを降りた後、ムチンジ行きのミニバスを探す。現地のマラウイ人に事前にムチンジ行きのバスがどこに止まっているかをピンポイントで教えてもらっていて、そこに行ったら本当にムチンジ行きが止まっていた。その場所はバスターミナルからも、ミニバスのステーションからも少し離れたところにあったので聞かなかったらかなり苦戦したかもしれない。

乗車後程なくして満席になり出発。この調子だと9時ごろにはムチンジにつきそうだ。どうやら乗客全員がムチンジに行くようで、どこかで停車することもなく、2時間ほどでムチンジに着いた。ここに数か月前にオランダでバイバイした友達がいると思うと感慨深い。

降りて10分ほどしたら友達が迎えに来てくれた。不思議なもので感慨深いのだけれどお互いまるで1週間ぶりに会ったかのようなテンションだった。友達が朝食付き1泊6ドルという破格のロッジをすでにアレンジしてくれていたのでチェックインを済ませてシャワーを浴びる。水しか出ないけれど、今はむしろそれが気持ちいい。汗と脂を落としたのち、ベッドで横になって昼まで過ごす。

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この日のムチンジは雲一つない快晴かつ風がそこそこある絶好の洗濯日和だったので、溜まっていた洗濯ものを手洗いする。ムチンジ、というかアフリカは概して日差しが強く、文字通り日「焼け」するし、「じりじり」という擬音がよく似合う。本当に焼けるように熱い。現地の人によると今は乾季で、こんな感じの雲一つない快晴が毎日続いているのだという。そして10月の終わりから11月にかけて、小雨季のようなものがやってくるらしい。

 

服を洗って干し、昼ご飯を友達と食べるべく街に出る。ムチンジの第一印象は、カメルーンに滞在していた時に滞在期間の半分を過ごしたNtuiという街にサイズ感も雰囲気も非常に似てるな、といった感じだった。ただ銀行や国際的なNGOのローカルオフィスがあったりする点でこっちの方が気持ち発展しているような気がする。

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夕方エアロビクスがあるから来ないか、と友人に誘われたので、一旦宿に戻って休んでから夕方再び宿の外に出る。メインの舗装されている道路ではなく、裏の未舗装の道路を通ったほうが近道だったので、そっちの道を歩く。何日も雨が降っていないからか、道路には粒子の細かい砂が積もっていて、歩くたびに舞い上がる砂のせいで足首より上が砂色になっていく。

歩いていると、小さい子供が裸足で歩いたんだろうな、という足跡がある。よくよく考えてみると地面に残る人の足跡というのは今どきなかなか見ない。これだけ砂が積もっていてなおかつ人通りがすくないからこそ残っていた足跡で、そこからはそこはかとない生命力と力強さのようなものを感じる。少し前にケニアで子どもたちとサッカーをするときに、当然みんな裸足だったので自分も平等にプレーしようと裸足になったのだけれど、整備されているわけでもない砂利のグラウンドでプレーするのは結構痛くて、でもものすごく「生きてる」というのを実感したのを思い出した。

砂だらけの道を20分ほど歩いてエアロビクスの会場に着く。エアロビクスは思ったよりハードだったのだけれど、それよりもマラウイの農村部まではるばる来て一番最初にやったのがエアロビクスというのを客観視すると面白いことこの上なかった。

 

翌日、友人のフィールドワークについていくことにした。フィールドワークはムチンジの中心地から少し離れた集落でやるとのことで、集落がどんな感じなのかを見るのは楽しみだ。

バイクに乗って40分ほど、途中道路が未舗装になり、両脇畑しかないような道を通り抜けて集落にたどり着いた。集落は5-10軒ほどのレンガとかやぶき屋根の家、家畜小屋などからなっていて、かなり整然としている印象だった。そして目的の集落につくまでの道中にもこういった集落が点在していた。幹線道路からかなり外れたところにも、そこだけで生活が完結しそうな集落がそこそこ存在する。これはカメルーンで滞在していた村とはだいぶ違う。

カメルーンで滞在していた村は、村から少し離れると幹線道路沿いにしかそういった集落は存在せず、幹線道路から1本小道にはいったりするともうそこには限界集落のようなものしか存在しなかった。まあカメルーンは村へのアクセスもこことは段違いに悪いし、村から離れた集落に住むメリットが低かったりするのかもしれないけれど、いずれにしてもこの差は面白いなと思う。

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フィールドワークが終わり、バイクで宿に帰ろうとしていると反射的に目をそむけたくなるような仮面をかぶった人が道端を歩いていた。霊媒師とか、呪術師とか、なんなのかわからないけどそんな感じ。木彫りのお面に白でペイントがなされている。観光客からお金を取るのかとおもったら、むしろ地元の人からお金を取っているらしい。ちょうどアチェベの本のなかで仮面をかぶった男の記述とかを見た後だったからこういったものを見ると少しテンションが上がる。

この日は友達づてで知り合ったマラウイ人の家に寄ってFIFAをした。FIFAもエアロビクスもマラウイじゃなくて地元・練馬区で全然出来ることなのだけれど、旅行疲れしていた身としてはこれくらいの緩さのほうがちょうどいい。

 

ということでここから数日も実にのんびりした毎日を送っていた。暇さえあれば本を読み、洗濯物が溜まったら洗濯をし、といった感じで。お気に入りのローカルレストランも見つけて、毎日通ったりで。

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何よりもこの町の雰囲気がとても好きで、頻繁に声をかけられるのだけれど悪意やからかいなどではなく、ただただ挨拶といった感じで声をかけてくれる。一般的にアフリカは都市部より田舎のほうがのんびりしていて人も良い(外国人の目線からして)印象があるのだけれど、ここも例外ではない。「チェワ語を教えてあげるよ!」「何しに来てるの?」「どこに滞在してるの?」などの普通の会話がほとんどだし、商売っ気のある会話だとしてもそれは現地の人への声かけとさほど変わらないのでストレスもない。鋭い目つきをしている老人にも、手を上げて会釈するとニコッとして返してくれる。ここまでの旅で溜まっていた疲れがだいぶ軽減されているのを感じる。

 

田舎だからなのか、街を歩いているとヤギやニワトリが至る所で生きたまま取引されているのをよく目にする。買われた後のヤギがバイクの荷台に縛られたときに挙げる悲痛な叫び声を聞くと思わず耳をふさいで目をそむけたくなってしまう。ヤギの鳴き声は他の動物以上にエモーショナルな気がする。マラウイ人はそれを聞いてもそこに視線を向けるでもなく、平然としているが、日本人的にはこういった家畜が食卓に届けられるまでの過程の最初の段階を見る機会というのは今どきなかなかないので、少し狼狽えてしまう。それを直視できないのに何食わぬ顔をして肉を食べるという自分のスタンスに少し嫌気が差してしまう。ベジタリアンやビーガンになる理由として、動物愛護の観点からなる人が揶揄されたり批判されるのをネット上でよく見るけれど、個人的には環境的な観点からよりも動物愛護的観点のほうがよっぽど共感できてしまう。まあそれでも食べるんだけど。マラウイ人の友達は「鶏とかヤギを捌くのは普通だからね。大体、野生動物と違って家畜は食べるために育てられてるんだからそりゃあ殺して食べるよ」と言っていて、生半可な自分よりもよっぽど正しいし筋が通っているなと思った。日本人が魚を捌き慣れているけど海外の人からしたら結構抵抗がある、みたいな話にも通じるのかも、とか思ったり。

 

ムチンジに来て1週間ほど経った。徐々に空に浮かぶ雲の割合が多くなってきて、時折「これは雨が降るんじゃないか」って思ったりするような灰色の雲もある。そろそろ雨季が来るかもしれないし、これはムチンジを出る頃合いか。ムチンジでは十分すぎるくらい回復したし、毎朝起きては「今日もここにステイするのでいいかな」と思ってしまうくらいには居心地が良い。けど、そろそろモザンビークに向けて出発しようかなというのを天気の微妙な差異を見て思った。良い思い出を良い思い出のまま留めておくには、去り際も大事な気がする。

 

アフリカ旅行記-マラウイ①

川を渡ってマラウイ側のボーダーオフィスへと行く。行く途中に「ビザ用の写真のコピーを取るならここでとれるよ」と若い男に言われ、値段もそこそこだったのでお願いすることにしてオフィスに行く。が、なかなかプリンターが作動しない。そしてプリンターの起動に手間取っている間に「いや待てよ、マラウイのビザって写真載ってないしコピーいらないのでは?」と思い、「やっぱ大丈夫!」と断りを入れてボーダーオフィスに向かう。

ボーダーオフィスで女性の入国審査官にビザを申請したい旨を伝えると、「なぜ電子ビザで申請しなかったのだ」と詰められる。電子ビザのシステムが陸路入国に対応してなかったり、ホストからのカバーレターが必要だったけどそんなもの用意しようがなかったり、と理由が説明ができないこともないけれど、マラウイ側は「事前に電子ビザを申請して来い」とはっきりとスタンスを示しているので向こうの言い分も尤も。

とはいえここで食い下がってはどうしようもないので、「理由はちゃんと説明できるから時間をくれ」というと、別室に連れていかれる。別室にはいかにも、な大柄の男上司が足を組んで座っていた。再び「なぜ電子ビザを申請しなかったのだ」と言われたので理由を一から説明する。そうすると「マラウイに知り合いがいないのであれば『私自身が私をホストします』と書いて自署を載せればよいだろう、なぜわからないのか」と言われて頭の中にはてなが並ぶ。賄賂を請求されるかなと思いびくびくしていたけれど、「電子ビザを今申請してくれたらここですぐ処理してビザを発行するから、とにかくまずはネットで申請してくれ」という極めて普通の指示をされて安心する。

幸いタンザニア側からのネットが使えること、パソコンを持っているので自署つきのカバーレターをすぐに作れることもあって、30分ほどで申請を済ませ、男上司に伝える。そうすると「これから昼休みだからそれが終わったら処理するからしばらく待って」と言われ、部屋を後にして固い木のベンチで横になる。こっちも昼食を食べたいところだけれど、国境の間にいる自分がありつけるご飯などありもしないので、横になって休むほかない。

1時間ほどして、ビザが承認されたという旨のメールが届き安堵する。そのメールをもって再び入国審査に行くと、「このPDFをプリントしろ」と言われる。朝からスイカ以外食べてないのでこういった些細なやり取りでもストレスが溜まる。仕方なく最初に行ったプリンターのあるオフィスに行って「これ印刷してほしいのだけれど」と頼むと、年配の職員があっさりと、しかも無料で印刷させてくれた。どうやら若い男はそこの職員を装ってお金を取ろうとしているだけだった。

紙に印刷したビザの承認確認書を提出して、晴れてマラウイ入国。

 

アフリカ縦断をする旅行者の多くは、東アフリカを回った後タンザニアからマラウイに行かずにザンビアに行く。これはビクトリアの滝や、ナミブ砂漠等、タンザニア以南の著名な観光地が徐々に西に寄っていることが主な理由だと思う。

自分が今回マラウイに行ったのは、大学院の時の友達がマラウイの小さな町でデータ集めをしているから。たったそれだけなのだけれど、やはり普段10000キロ以上離れたところにいる友達がたった1000キロ以内、それもちょっと足を延ばせば会える距離にいるなら会いに行かない選択肢はない。

ということでマラウイ側に入ったけど、びっくりするくらい道以外なんもない。これ、ミニバス拾えるのか?とか考えつつ、かといって立ち止まっても仕方がないのでとりあえず一本道を歩いていく。

10分ほど歩くと、集落とも言えないくらいの家が何件か並んだところにたどり着き、そこで何人かの男が「カロンガに行くか?」と声をかけてきた。が、今まで乗ってきたようなミニバスは見当たらない。どうやら普通の乗用車に人を集めてそれでカロンガまで行くそうだ。今回の最終目的地はムチンジというザンビアとの国境沿いにあるマラウイ南西部の町。自分が今いるのがマラウイの北端なので、まずは北部の比較的大きな都市であるカロンガまで行き、そこからムズズ、カスングとミニバスを乗り継いでムチンジまで行く予定だ。なのでカロンガまで行けるというのは悪くない。

最初4000クワチャといわれたのが2500クワチャ(400円ほど)まで下がり、感覚としてそこまで悪くないのでタンザニア側で両替したクワチャを使い、カロンガへと向かう車に乗り満員になるまで発車を待つ。待っている間に「Hey my friend!どこから来たの?日本?Oh my god, 番号交換しようよ。君は友達だから僕のために日本に帰ったらギフトを送ってよ!」と友達になった覚えもない知らない人に絡まれる。何度も書くけれど朝からスイカしか食べていないのでそんな面倒くさい相手と会話するエネルギーはさらさら残っておらず、適当にあしらってると「僕はアフリカ人、君はムズング(白人)、友達なんかじゃないよ」と言われて立ち去って行った。状況が状況なら1日くらい考えてしまいそうな言葉を浴びせられたけれど、だいぶ無茶苦茶な言い分なのでスルーする。

車はというとトヨタの普通の7人乗りの乗用車だったけれど、車内には9人が乗り込み、そしてその隙間という隙間に荷物を詰め込むという豪快さ。乗用車の助手席なら比較的広めに使えるかと思いきや、助手席と運転席の間にも人が座っていて狼狽えた。

 

カロンガまでの道中でチヌア・アチェベの『崩れゆく絆』を読む。恥ずかしながらアフリカ文学の父と呼ばれている彼の代表作を知らなかったのだけれど、これも友人の勧めで読むことに。純文学を読むのは久しぶりだったから読み切れるか不安だったけれど存外に面白くて1日で読み終えてしまった。そして当たり前と言えば当たり前なのだけれど、昔のアフリカの生活を事細かに描写しているために農業の描写が多い。そこからはIntercroppingが行われていたり、昔から雨季の始まりを読み誤って不作になってしまったりする事象があることが見て取れる。アフリカの農業に携わるものとしては伝統的な農業だったりをある程度リスペクトする必要があると思っていて、そういった知見を得るためのアフリカ文学、というのは結構新鮮な発見だったように思う。

 

1時間ほどで北部の街、カロンガへと着く。地図で見た時は街だと思ったけれど、それを街と呼んでいいのかどうか迷うくらいには小さな「街」だった。今日はここからさらにミニバスに4時間ほど乗ってマラウイ中部のムズズまで行ければ百点満点だ。この時点で15時なので全然無理な話ではない。とはいえ、マラウイの通貨であるクワチャを持っておらず、ネットも開通してないし、なにより空腹がものすごいので、それらを解決してから向かうことにする。まずは銀行へ行ってお金を手に入れる。ATMか両替か選べるのだけれど、そろそろ旅が終盤に差し掛かってきているなかで結構な額のユーロ紙幣が余っていたのでこれを両替することに。適当な銀行で50ユーロを両替すると、公的レートだと50000クワチャほどもらえるはずのところが何と64000クワチャももらえた。理由は聞かなかったけれど、アフリカではこういった紙幣からの両替のほうがレートが異常に良い、みたいなことがあるということは耳にはさんだことがある。マラウイはそんな国の1つなのかも。そして何気なく両替を担当してくれたおじさんに「ムチンジに行く予定で、今日はムズズまで行く予定なんだよね」と話すと、「ここからリロングウェまで夜行バスが出ているから、ムズズまで行くのはやめて夜行バスに乗ったほうが早く着くよ」と思わぬ情報を教えてくれた。ムズズまでミニバスで行くとその日はそこで移動をやめなければならないし、また着いてから宿を探したりもしないといけない。そしてムチンジに着くのは早くとも翌日の夜だ。夜行バスに乗れば宿の心配はいらないし、翌日の午前中には確実にムチンジについているはずだ。気持ち的には一刻も早くムチンジに着きたかったので、夜行バスを探すことにする。

カロンガからムチンジまでは何社かバスを出しているが、夜行バスを出している会社は少数で、小さなバスターミナルで夜行バスを運行している会社を見つけて値段も悪くなかったためそこのバスに乗ることを決める。

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慣れた手順でSIMカードを契約して、やっと次なる目的の食事処を探す。この時点で16時、タンザニア時間では17時なのでもう1日ほとんど何も口にしていないことになる。旅をしていると徐々に燃費が良くなっていく―少ない食事で長時間行動できるようになる―が、それでも身体がエネルギーを求めているのをかなり感じる。

すこし町を歩いてみるものの基本的にはフライドポテトばかり売っていて、これは正直食べ飽きていたので、結局バスターミナルに隣接した食堂に落ち着いた。

何も言わずに待っていると、トウモロコシから作られたシマという主食とビーフシチュー、豆の煮込み、そして野菜のプレートが出てくる。後々わかるがマラウイといえばこれ、というくらい定番のセットだ。味は特段これといって特別なこともないのだけれど美味い。そしてシマがとにかく腹に溜まるので、夕方に食べたその日初めての食事だというのに「今日はこれでいいかな」と思うくらい満腹になった。

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ご飯を食べ終わってしばらく食堂で時間をつぶしていると物乞いの人に「お金をくれ」と言われる。カロンガは田舎町といった感じで極めて牧歌的・平和な雰囲気が漂っている一方でこういった物乞いは明らかに他の国で行った街に比べて多い気がする。この日だけでも3回ほどあったし、国境近くで車に乗ってたら絡んできた人もとらえ方によったら物乞いのようなものだ。最貧国の一つともいわれるマラウイに来たから、と短絡的に結びつけたくはないけれど、いやでもそういった考えがよぎってしまう。今までの国でも物乞いは見たのだけれど、物乞いといっても少し雰囲気が異なっているように思う。

 

夜行バスに乗るために6時にはバスターミナルに居て、と言われたものの、バスターミナルにバスが来たのは7時、発車したのは8時過ぎだった。まあアフリカだとさほど珍しいことでもないのでストレスももはや溜まらない。バスは新幹線のような5列シートであることを除けば普通のバスだった。可もなく不可もなく。ただ大柄な人が多いという土地柄、自分の座れるスペースは必然的に狭くなってしまう。そしてありとあらゆる荷物が通路に置かれて、そのなかには煮干しの入った麻袋とかがあるもんだからバス内は煮干しの匂いが充満していた。

ふいに奥歯が痛み出す。虫歯とは違った痛みでこれまでにも経験したことのある痛みだけれど、多分疲労からくるものだろう。思えばこの2日間はとにかく座って移動しかしていない。どうすることもできないので眠りに就こうとする。やっと寝れたと思うと、肩を叩かれて起こされる。服装を見るに軍隊か警察で、パスポートを見せろとのこと。パスポートとマラウイのビザを見せると何かを言われるでもなく解放されるのだけれど、これが結局1回の乗車で6回ほどあり、ろくに寝れなかった。そして起こされるたびに奥歯の痛みを自覚する。

午前2時くらいに最後に起こされてからは比較的深い眠りに就け、次に起きた時にはリロングウェの目前、太陽も昇っていた。幸いなことに奥歯の痛みも心なしか軽減されているように感じた。

リロングウェの街に入る。高層ビルのようなものはあまり見えず、基本的にはそこまで栄えている印象は受けない。まあマラウイ最大の都市はここからさらに200キロほど下ったブランタイアという街なので仕方ないといえば仕方ないかもしれないけれど。

急にごちゃごちゃとした雰囲気になっていき、その先にバスターミナルがある。バスターミナルというよりかはマーケットのなかにある駐車場といった感じだけれども。目的地、ムチンジまでもう一息。2日間移動してきたけれど身体も気持ちも楽になっていくのを感じる。

アフリカ旅行記-タンザニア⑤

朝4時、目覚ましを使うまでもなく目が覚める。普段の早起きは滅法苦手だけれど何か用事がある時に寝坊をしたことはほぼない。

 

宿の人が用意してくれた朝食、というかパサパサの食パンを水で流し込み、前日に手配しておいたバイクでバス停まで向かう。

乗り込んだバスは思ったより綺麗な最新のバスだった。座席の幅は狭いけど、これで移動できるなら16時間の移動も心配なさそうだ。

が、乗り込んだバスはどうやら今日目指すムベヤ行きのバスではなく、5時発のそのバスでバスターミナルまで行き、バスターミナルからは同じ会社の別のバスだと言われた。

 

同じ会社だし同じクオリティのバスなら、、と願っていたものの、バスターミナルで誘導された先にあったバスは内装だけ見るとかなり年季の入ったバスに見えた。実際はUSBポートも付いていて(しかも使用できた!)そんなに古くないのだけれど、酷な使用でかなり早い段階でガタが来たのだろうと思う。

足のスペースは40cmあるかないかとかで体勢を変えるのも難しい。おまけにフットレストが壊れていて変な位置で固定されているため、余計に足の自由度が低くなっている。

 

バスは6時を少し過ぎた時間に出発。時間はたっぷりあるし、何せ4時起きということもあるのでまずは寝る。思ったより道路が悪くないからなのか、急ブレーキ以外は特に問題なく、寝たり携帯をいじる余地があるような感じだったので、思ったよりは快適だ。

しばらく寝て、本を読んだりすると11時ごろに比較的大きな町に着く。そこで10分休憩があったので、揚げドーナツのようなものとオレンジを買って食べる。

つかの間の休憩を挟んで、バスが再び走り出す。席の狭さにも慣れてきて、思ったよりもストレスは感じない。ひたすら本を読んだり、寝たり、動画を見たりを繰り返していれば時間は過ぎる。15時に2回目の休憩。休憩の感覚的におそらくこれが最後の休憩だろうな、ということで露店の牛串を買って空腹を凌ぐ。

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そこからさらに6時間ほどバスに乗り、21時にやっと目的地ムベヤに着いた。思ったよりは疲れなかったけれど、それでもそこそこの疲労を感じる。バスターミナル近くの露店でご飯と豆のシチューを100円くらいで売っていたので食べてエネルギーを回復。食べた後は流れるようにあらかじめ調べておいた近くのモーテルのようなところに転がり込む。

転がり込んだところはごく普通のホテルの一室で小綺麗だったけれど、バスルームの扉を開けると、まずシャワーがあってその奥に和式トイレがあり、和式トイレが排水溝も兼ねているという不思議な構造だった。そしてホットシャワーは出るのだけれど、ホットシャワーの機械が漏電していて、スイッチをオンにしたまま金属の蛇口をひねろうとすると手が震えるというとんでもない仕様だった。

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ムベヤへの道中で友達が電話をかけてくれたけど電波が悪すぎて取れなかったので折り返す。一人旅だと無性に話したくなる時があるので、こうやって電話が気軽にできるのはありがたいなと思ったりする。

 

次の日、朝8時ごろにチェックアウトを済ませ、国境沿いの街であるイピンダを目指す。宿の人に手伝ってもらってバスターミナルの中からイピンダ行きのミニバスを探しだして乗り込む。今回も明らかに4人掛け(3人分のシート+補助席)のシートに5人が乗るぎゅうぎゅう詰めのスタイル。途中謎に車の乗り換えをさせられたが、2時間半ほどでイピンダからさらに国境沿いに行ったカスムルという村に着いた。ここまで来ればバイクも使わずに徒歩で国境まで行けそう。おびただしい数の客引きを振り払って歩き出す。

朝から何も食べてないので、国境沿いで何か店を見つけて空腹を満たしたい、と思っていたところでスイカ売りの露店があったので、1/6カットほどのスイカをいただく。いくらかわからずに5000シリング札(300円)を渡すと「おつりがないよ…」とぼそっと言われたので、1000シリングを渡すと、500シリングが返ってきた。なんと30円でこのスイカである。味もめちゃくちゃ甘くて、「こんなのが30円で食べられてしまっていいのか…!」となる。アフリカの果物は品質維持とかの問題で日本にはなかなか回ってこないけれど、現地で食べるとやはりものすごくおいしい。

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15分ほど歩いて国境に着いた。川が国境になっていて、これを渡ればマラウイだ。いわれるがままにタンザニアのボーダーオフィスで出国手続きを済ませて川を渡る。

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陸路で国境を越えるとき、国境を越えてガラッと雰囲気が変わるような場合もあれば、国境が単なる記号でしかないような場合もあるが、今回は後者な気がする。ボーダーオフィスを超えてもなお橋の下では農作業が繰り広げられているし、現地の人は特に手続きなしに行き来が出来る様だ。

今まで行った中だと、例えばオーストリアからスロバキアに入ると露骨に工場や団地が多くなり、国境を越えたと共に全く別の国に入ったことを実感したりした。国境一つを取っても面白いなと思う。

 

川を渡って、58か国目、マラウイへ。